日頃、いろんなイライラがありすぎて嫌になったので
自分のイライラにしっかり向き合ってみました。
その結果、イライラの原因がミソジニー(女性嫌悪)にあると分かり、
色々と楽になったよーという報告の記事です。
ミソジニーというのは「女性や女性らしさに対する嫌悪」の事らしいです。(ウィキペディア参照。)
私は女性なのですが、ネット上のミソジニー的な意見に触れすぎたせいで無意識のうちに自分の中にミソジニーの考えが植え付けられ、自分で自分を苦しめていました。
この記事は②【分析編】です。
何故ミソジニー的な考えを自分に植え付けてしまったのか、考えてみました。
↓①【気づき編】はこちら
- 分析:なぜミソジニー的考えが植え付けられてしまったのか
- 女性らしさと私について
- 男社会で評価されようとして、ミソジニー的意見に縛られてしまった
- 上司からのセクハラ
- ミソジニー的意識が自分以外にも向いていた
- まとめ
分析:なぜミソジニー的考えが植え付けられてしまったのか
ネットでミソジニー的意見に触れただけでなく、通勤中にされた痴漢や上司からのセクハラで、「男は女を見下している」という考え方が植え付けられてしまったのだと思います。
女性らしさと私について
私は特に強く男女平等を掲げてきた人ではないですし、女性嫌悪でも男性嫌悪でもないという自己認識でした。
そりゃみんながストレス少なく生きていけたらいいと思うから男女平等的な考えは持ってるけど、自分から何かを発信するほどの考えは持ち合わせていませんでした。
ただ、自分が女性として受けてきた抑圧はそれなりにあるという自覚でした。
自分が女性じゃなければこんなことされなかったのになーということは沢山あります。
・サッカーが好きなのに先生や男子生徒から「女だからサッカー部には入れない」「女は仲間入れない」と言われた
・体育教師にブルマを強要された
・やんちゃだった事を「女の子なのに」と言われた
・家庭科でリンゴの皮をうまく向けなかった時、先生に「女の子なのにこれじゃあ…」と言われた
・数学が得意だった事を「女のくせに」と言われた
・飲み会でお酌しなかった時「女の子はお酌できないとダメだよ」と言われた
私は小さいころから数学やサッカーが好きで、おしゃれにはあまり興味のない人間でした。要するに、女の子らしさの特徴を持たない女として評価されることが多かったです。
他人に「男らしさ」「女らしさ」を重視するような人たちには「人でなし」扱いされるような人種だったというわけです。表面的には「そんな事気にして生きる必要はない。自分らしく生きよう」と思っていたのですが、無意識のうちに気にしていたようです。
このような幼少時からの経験から、「女らしさ」「男らしさ」という言葉には人一倍に敏感になっていました。
男社会で評価されようとして、ミソジニー的意見に縛られてしまった
ネット上のミソジニー的な記事に触れたのはいつからだったのか覚えていません。
某掲示板のまとめサイトでくだらない記事を見るのが好きだったのですが、その中で「女は感情的で非論理的」という趣旨の記事を見た記憶があります。
「PCや車のトラブルについて話す女と、話を聞く男の会話例」について「男は解決を求め、女は共感を求めるから仕方ない(女には話が通じない)」といった記事もありました。
なぜか私はこういった記事を進んで自ら進んで読んでしまいました。
特に大学院生時代~社会人二年目までの期間、このような意見に触れることが多かったです。
推測なのですが、私のいた環境が男社会だったことが影響しているのではないかと思います。大学院生時代は物理学専攻でしたので研究室は3割しか女性はいませんでした。女性0人の研究室もあったため、これでも多い方です。
就職後は女性2割。メーカーの開発職だったのですが、女性のうちほとんどがアシスタント的なポジションで、所属部署で開発総合職として働いていたのは3人しかいませんでした。
そんな中、男性が女性を批判する記事を見ることで「これに沿えば男社会で評価される」という指針を得たような気持ちになり、安心したかったのだと思います。
また、就職後は「うちの部署の女性は優秀だ。女性らしい細やかな気遣いがやはり大切だ。」「女性だからそんなに残業はさせられないよ。」と言われ、女性だからって私は細やかな気遣いしなきゃならんのか?同期男がバリバリ仕事してる時にさっさと帰らないといけないのか?とイライラしていました。
論理性に躍起になり、問題解決手法やロジカルシンキングの本を読み漁り、人事考課で最高評価を得て、認められた!と思った矢先の事でした。
尊敬していた上司からセクハラされてしまいました。
上司からのセクハラ
飲み会の2次会のとき、隣に座った上司が太ももを私の太ももに擦り付けてきました。
最初は少し当たっただけかな?と思い避けましたが、何度も擦り付けてきました。
その日は何度避けても擦り付けてきたので、トイレに行くフリをして席を立ち、違う席に座りました。
わけがわからず頭が真っ白でした。帰宅して翌日朝起きて現実を受け止め、悲しくて仕方がありませんでした。
丁度部署移動があったため、これ以上関わりたくないという気持ちから、誰にも言えずにいました。
尊敬していた上司です。
まだ未熟だった私に、責任ある仕事を任せてくれました。
初めて書いた技術報告書を何回も添削してくれました。
他部署との打ち合わせでも、私に発言を委ねてくれました。
私を評価してくれていると思っていました。信頼していました。
自分が男性だったら上司はセクハラしなかったでしょう。
セクハラ直後が一番強く「自分が男だったら」と考えていた時期でした。
男になりたいと何度願ったか数え切れません。
あのネット上のミソジニストたちの言う通り、男は女を馬鹿にしている。
女でなくなれば、男に馬鹿にされないかもしれない。
「感情的で非論理的な女は、男から馬鹿にされ、性的に消費され、社会的に弱い立場になる」という考えを自分に植え付けてしまいました。
ただ、この時の私は受けたセクハラ等の「男だったら起こらなかったこと」と、「感情は出さないようにしよう」「論理的に発言しよう」という目標に繋がりがあるとは自覚していませんでした。
自分の表面上の気持ちとしては「男だったらされなかったのに」「男になりたい」「論理的でなければ」「感情的な事は許されない」といったものでした。
以上の経緯があり、「非感情的」「論理的」を意識して日々を過ごしていました。
単にこれ自体は何も悪いことではありません。少なくとも開発の仕事では、感情的で非論理的であったら生産性は落ちるでしょう。
私の場合はミソジニー的意識が根本にあったため、深刻な問題でした。
ミソジニー的意識が自分以外にも向いていた
私は「感情的で非論理的な女は、男から馬鹿にされ、性的に消費され、社会的に弱い立場になる」と思い込むようになりました。
女性である自分を見下すと同時に、私が見たネット上のミソジニストのように女性を見下すようになってしまいました。
具体的には「社会的に弱い立場の女性は馬鹿にされても仕方がない」という気持ちがありました。
まとめ
もともと「女らしさ」「男らしさ」といった言葉に敏感だった私が
男社会で認められようとする過程でミソジニーに出会い、
無意識的にミソジニーの意識が根付いてしまいました。
自己分析の結果、自分を軽蔑してしまうようなことが分かってしまいとてもショックでした。
しかし、現実を受け止めてからは日頃のイライラも減り、今はかなり生きるのが楽です。
自分が知らずのうちに目を背けていることにしっかり向き合うことがカギだと思います。どんなに目を背けたいものだとしても現状を認めることが大事なのだと気づきました。
この記事では主に現状の分析について考えていきましたが、
次の記事では解決について書こうと思います。
↓解決編です。