私はミソジニー(女性嫌悪)的なネット記事に触れすぎて
「女は感情的で非論理的で話にならない」といったことを気にしていました。
仕事だけでなく、プライベートでの自分の感情まで無視してしまい、感情的な自分を責めてストレスが溜まってしまいました。
私と同じように気にしてしまっている方へ。
そんな言葉、気にしなくていいですよ。
今回はすぐ泣いてしまう自分について、泣いてもいいんだ!と気づいたことについて書きました。
↓①【気づき編】はこちら
↓②【分析編】はこちら
①気づき編、②分析編では、思っていたよりも自分が差別的な人間であることに落ち込みました。自分にドン引きです。
しかし、認めるしかないのです。現状を認めて初めて、解決に向かうことができます。
一旦認めてしまえば、あとは自然と色々なことが気にならなくなり、楽になりました。
それと同時に、自分がどれだけ固定観念や思い込みに縛られていたのか気づきました。
解決①「女は感情的だから話が通じない」の悪影響
すぐ泣いてしまう自分が嫌だった
私はすぐ泣いてしまいます。映画を見たときや曲を聴いた時、すぐに涙が出てしまうのです。
近しくない親族が無くなったとき、大きくないライブで曲を聴いた時、泣いているのは私だけでした。ものすごく恥ずかしくて、消えてなくなりたい思いでした。
この時の私にとって、すぐ泣くのは「感情的な事」であり、「ネット上の人たちのいうダメな女性らしさ(これだから女は感情的で話が通じない)」であり、「男社会から悪く評価される事」でした。
泣かない方法について調べても、
「無理して泣き止む必要はない」「泣きたいときは泣いて良いんだよ」
といったアドバイスばかりでした。
とにかく泣きたくない私にとって、求めているものであありませんでした。
なぜなら、男社会で評価されるには感情的であってはいけなかったからです。
「無理して泣き止む必要はない」「泣きたいときは泣いて良いんだよ」と声をかけてくれた友達も居ました。
私の事を思って言ってくれた友達の優しさに、更に涙が出てしまいました。
友達は私のためを思ってくれていたと思うので、
決して友達に対して「役に立たない」とは思っていません。
ただ、そのときの私は「無理して泣き止む必要はない」「泣きたいときは泣いて良いんだよ」の真の意味を理解できていませんでした。
声をかけてくれた友達にとても感謝しています。いい友達を持ちました。
それと同時に、素直に励ましを受け入れられなかったのが申し訳ないです。
泣くこと自体が屈辱で仕方ありませんでした。
感情的なことの何が悪いんだろう
悩みを解決したいとき、私は「本当にそうだろうか? 」と自分に問いかけます。
ミソジニーが無意識に心の中にあったときは、「泣いてはダメなのか?本当にそうだろうか?」と考えてみても
「当たり前だ。いい大人が感情的になるなんて」
「泣いているのはお前だけだぞ」
という答えしか得られず、泣かないことが当たり前という考えで頭が固くなっていました。
しかし、自分の中のミソジニーに気づき、自分を縛るものの形が見えてからは、
「感情的であること」を恐れているのはひょっとしてミソジニー的意識から来ているのでは?と思いました。
感情的な事は本当にダメなのか?に対する今の自分の答えは
「もちろんそんなわけない。感情上等!」です。
感情上等!
感情を無理に押し込める必要はないと思います。
ここで言いたいのは仕事中に喚き散らしてもOKとかそういうことではありません。
「まずは自分の感情を認め、向き合って整理しよう」ということです。
もちろん、例えば人と話す際に感情的になって傷つけてしまったりするのは良いこととは言えません。仕事でも議論の途中に感情的になっていては、いつになっても結論なんて出ませんよね。
しかし、自分の喜怒哀楽はしっかり自分のものとして受け止める必要があると思います。
もし議論中に相手の主張にムッとしたとすれば、必ず根拠があってムッとしているんですよね。
痛い所を突かれたけど認めたくないとか、相手の言っていることが前と違うとか。
しっかりとなぜそう感じたのか自覚できないと、ずっと相手の意見にイライラしたままです。こんなの当たり前なのですが、私の場合は「感情的なのはダメだ、建設的な議論を」と心がけていた結果、自分のイライラは無視したままでした。
仕事はそれで回るかもしれませんが、ストレスが溜まりました。
仕事中であれば、その場は建設的な議論を意識し、後で自分の感情と向き合うのが良さそうです。
私の場合は特に、泣くことは悪いことだと考えていたため、泣いてしまった時は「自分がなぜ泣いたのか」について考えず、とにかく涙を止めることに集中しようとしていました。
プライベートの時間でも自分の感情を無視しようとしていました。
例えば自分の部屋で泣きわめいたっていいと思うんですよ。
なのに、それさえ嫌悪感があって、声を抑えて泣いていました。
プライベートでも泣くことが嫌で、泣いている自分を誰かに知られるのが嫌でした。
ストレスは溜まるばかりでした。
しかし、よく考えてみるとプライベートで涙もろいくらいの事、全然気にすることじゃないんですよね。
私生活で感情的な事の何が悪いんでしょうか。
悲しいときは悲しみ、嬉しいときは喜び、怒りたいときは怒ればいい。
このとき、感情に任せすぎて伝え方を間違ってしまうと、相手に何も伝わらないと思います。しかし、良くない伝え方はあるでしょうが、持ってはいけない感情はないと思います。
誰かもわからない人が書いたネット上の意見(ミソジニー的な意見)なんて気にする必要はないと思いました。
世の中で2割の人は自分に対して愛好的で、6割の人はどうでもよく、2割の人は嫌悪的だそうです。どんなに良い人であっても、誰かから嫌われています。
何をしたって自分を嫌う人はある程度います。そんな人の、しかも出所のわからないめちゃくちゃな意見に振りまわされる必要はありません。
ここまで思い至り、
自分は今までなんて狭くてちっぽけなものに縛られていたんだろうと思いました。
ミソジニーに限らず色んな他人の意見がありますが、他人からどう思われるかはどうでもいい。やりたいように生きていい。
このとき真にそう思えました。呪縛から解き放たれたような気分でした。
まとめ
すぐ泣いてしまう自分の感情的なところが本当に嫌でしたが、
自分の感情は大切にすべきです。
ミソジニーに限らず、他人の意見に縛られずに自由に生きていいんだと思えるようになりました。
ただ、ここで感情の伝え方が大事になってくるような気がします。
今後は伝え方について勉強して、試行錯誤していきたいです。